【ネタバレあり】右手が語る/騙る物語(『この世界の片隅に』)
2016-12-30


前回まで、『この世界の片隅に』原作が持つ幻想/民俗的要素に対してSF/幻想文学の文法による構造解析を試みてきた。
 以下はこれまでの考察の基盤ともした考え方でもあるが、原作に関しては、マンガとしての様々な実験手法そのものが、「すずさんの右手」で描かれた(実際に描かれていなくとも、描くことができる/意識の上では描いていたかもしれない)ものとして捉えることができると思われる。

〓〓右手が手にした画材
 特に、物語の冒頭と末尾の「年月」以外のサブタイトルの付された短編間では、描かれる対象がリンクしており、また、特に失われた右手が用いる画材もまた、描かれる対象とリンクしている。

「冬の記憶」ー「人待ちの街」
 ー短い鉛筆で「鬼イチャン」→ばけもんが描かれる。
「大潮の頃」ー「りんどうの秘密」
 ー口紅で座敷童→リンが描かれる。
「波のうさぎ」ー「水鳥の青葉」
 ー羽根ペンでさぎ、青葉、波のうさぎが描かれる。

 こうしてみると、「鬼イチャン」は、子供の頃に楽描きしすぎてちびた鉛筆で、リンは二葉館を訪ねた際にもらった口紅で、さぎは哲にもらった羽根のペンで描かれているのがわかる。
 なお、末尾側にはさらにふたつの短編がある。

「晴れそめの径」
 ー地面に石で径子、北條親子、晴美等が描かれる。
「しあはせの手紙」
 ー長い鉛筆でヨーコ母娘が描かれる。

 ここで、晴美に関わる来歴が地面に石で描かれているのは、すずさんが防空壕で描いた似顔絵に対応しているものと思われる。一方、対応するものがないヨーコ母娘は普通の鉛筆で描かれている。

〓〓水彩画と羽根ペン
 これらのエピソード群の中でも、水原哲と青葉をめぐる2篇は基本的には客観視線で描かれたエピソードであり、「右手」の介在は控えめで、「波のうさぎ」ではすずさんの水彩画が哲の去るシーンと同化している点と、着底した青葉を見る哲を見たすずさんが、波のうさぎやさぎを思い描いている程度にとどまる。
 これは、前回までの解釈に沿うなら、すずさんの意識が未だ左手の描く歪んだ世界にありながらも、右手の世界の感覚を取り戻しつつあるとも解釈でき、すずさんの精神状態が解離状態から回復するきっかけをつかみつつある、と考えることもできるだろう。
一方で、これらのエピソードには明確な幻想性もなく、「右手」による「語り」=すずさんの現実に対する干渉も特に考えなくてよいと思われる。

〓〓もうひとつの径?
 特に対応するエピソードのない「晴れそめの径」は「右手」が石で地面に描いているものとして、駐留軍のジープ、右手を失った姿のすずさんや、(息子の消息を知らせる)手紙を読む刈谷さんなど、すずさんにとっての普通の現実=「左手の世界」の出来事が描かれているように見受けられる。そこで並列に、北條家の過去、径子と晴美のこれまでなど、これもまたすずさんをとりまく現実に属する事柄が描かれている。普通に考えれば、このエピソードに対して、これまで行なってきたような考察を無理に試みる必要はないかもしれない。
 しかし、ここで敢えて、このエピソードもまた「右手」によって描かれていることから、「右手」が、あり得る可能性を付随する過去まで含めて「観測」しているとするとどうだろう。
 そう考えた場合、ここで「右手」は北條家の人たちの様々な可能性の中から、現実に即した、すずさんの嫁ぎ先としての北條家の人々を「観測」し、描き出したのかもしれない。
 仮にここで「右手」が径子や晴美に関わる現実干渉〓径子が別の相手と結ばれ実家を頻繁には訪ねない、晴美が生まれていない、など〓を行なった場合、すずさんの右手が失われることもなく、(これまでに考察してきたような)「語り手」としての「右手」の力は発揮されないため、これらのこれまでに起こった通りの現実を描かざるを得なかったのかもしれない。

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